映画『3月のライオン』『聖の青春』のモデル、村山聖はどんな人

人気将棋マンガ「3月のライオン」のTVアニメ化と実写映画化、そして松山ケンイチ主演の「聖の青春」

この2作品に共通している人物で1人、短い生涯を送った有名な棋士をご存知でしょうか?

今回は、病と闘いながら将棋に全てを賭けた天才棋士、村山聖さんについて書いていきます。

 

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将棋棋士『村山聖』とはどんな人間だったのか。

 

村山聖(画像引用元:iesiat.cocolog-nifty.com

村山聖(むらやま さとし)1969年6月15日生まれ

幼くして「ネフローゼ」という重い腎臓病を患い、入院時に出会ったのが将棋の世界。

1983年に日本将棋連盟のプロ棋士養成機関「新進棋士奨励会」へ入会し、1986年11月5日にプロデビュー。

プロ入りまでにかかった期間は2年11ヶ月。有名な羽生善治でもプロ入りまでに3年はかかり、村山聖は異例のスピードでプロ棋士になったことは有名です。

 

好きなものは・・・

・漫画(特に少女マンガが好きだっだそうです。)
・音楽(キング・クリムゾンやエイジアについて熱く語っていたそうなのでプログレ好き?)
・詰将棋

 

嫌いなものは・・・

・お風呂
・散髪
・写真
・タマネギ
・人付き合い
・将棋

嫌いなものを見ると一見だらしない人間に思えてしまうのですが、散髪などに関しては嫌う理由があったのです。

それは、髪の毛や爪にも「命」があると。

その「命」を切ることに抵抗を感じ、髪の毛や爪を切るのを極端に嫌がっていたため、村山の髪の毛を掴みながら師匠が無理やり散髪屋へ連れて行ったこともあったそうです。

 

また、彼は18歳の頃から東南アジアやアフリカの孤児たちに対局料の寄付を長年に渡って続けていたり、阪神・淡路大震災の時にも多額の寄付をしていました。

村山聖は、プロ入りしても家賃17,000円の4畳半、風呂なし、トイレ共同という部屋に住んでいたそうです。

お金に対しての執着心がなかった人だったのかもしれません。

 

 

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村山聖の『悲痛で孤独な叫び声』

村山聖がプロ入り前に自分自身の内面を告白している記事を見つけたのでいくつかご紹介します。

 

毎日毎日絶望感でいっぱいだ。1年後、半年後さえ生きられる保証はない。
昔から負けず嫌いである。しかし14歳ごろから感情をコントロールできるようになった。
中学を卒業してから明るくなった。どうせ自分は永く生きられないと思った。そう思ったらなんでも出来る気がした。
15歳の時、本当に自分の生きている意味がわからなかった。今では自分はゲームしていると思っている。自分だけでなく世の中のこと全てがゲームだと思っている。

 

村山聖は5歳で「ネフローゼ」にかかり、小学校入学してから直ぐに病状が悪化し、5年間闘病生活を送りました。

幼い頃から「死」と向き合い、「生」と闘ってきた彼の思いが、強く重く心に突き刺さります。

 

最後に・・・

村山聖は長く病気と闘ってきましたが、1996年には「進行性膀胱癌」が見つかり、片方の腎臓と膀胱を摘出するという大手術をしたが、休場せず棋戦を戦い続けていました。

1998年に癌の再発と転移が見つかり、1年間療養に専念すると公式発表しました。

その年の「将棋年鑑」のプロフィールに今年の目標は?の項目に「生きる」と書いたそうです。

 

1998年8月8日、29歳という若さで亡くなりました。

29年間、彼は太く短く、そして信念を強く持ち続けてきた人生だったのではないでしょうか。

彼は薄れいく意識の中、将棋の一手である「2七銀」とつぶやき、それが最後の言葉だったそうです。

その意味は色々と話題になりましたが、村山聖本人に聞かないと謎は解けないようです。

余談ですが、3月のライオンの6巻の表紙は村山聖がモデルである「二階堂晴信」が手に持っている駒は「銀」なのです。

村山聖がどんな人間だったのか、少しでもわかった後に3月のライオンの6巻を読んでいただくと、また違ったストーリーが見えてくるかもしれません。

 

【記事:ジョージ・A・ロメ子】

 

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